第40回 国のリスクコミュニケーションに足りないこと(後編)

2021年5月16日

こんにちは、小島正美です。前回のブログは「記者が自由に書いているように見える記事でも、実は組織(新聞社)の意向に制約されている」という話でした。今回はその続きです。新聞や週刊誌の記事、テレビのニュースに現れる記者のリスク観は、記者個人のリスク観のように見えますが、実は、組織(媒体)のリスク観でもあります。

ママ美 記者が記事を書くときは、置かれた「場」に制約されてしまうのですよね。

正美 そうです。
たとえば、「週刊新潮」は、農薬や食品添加物のリスクを過剰に煽ります。なぜか。それが週刊新潮の路線だからです。記者個人がいくら「微量の農薬なら人への影響はない」と科学的な内容を書いたとしても、組織はそれを載せません。安全だというニュースはそもそも面白みに欠けます。週刊新潮の記事を見ていると「微量の農薬でも子供の発達障害に関係している」と主張する少数派科学者の意見を重視していることが分かります。これだとインパクトがありますね。
人が微量の農薬を摂取し続けたとしても、生涯にわたって摂取しても影響のない1日許容摂取量(ADI)以下なのは明白です。とすれば、ある特定の農薬と医学的な発達障害との関係はまずない、と見るのが多数派科学者です。しかし、週刊新潮はそういう科学界の検証を経た正統的科学観よりも、ニュースとして売れそうで、新規性にあふれ、市民団体から共感を得るような記事を書くわけです。

ママ美 そういう週刊誌の体質は変わらないでしょうか。

正美 まず変わらないと思います。自分の生き方を変えるようなものだからです。おもしろいエピソードを披露します。2年ほど前、週刊誌の「週刊女性」がきわめて科学的な記事を載せたため、「今後も、このような記事を期待しています」とお礼のメールをしたら、「褒められても困ります。私たちはさんざん煽ってきたので、これからも変わることはありません」と正直なメールが届いたのにはびっくりしました。
週刊誌は「煽る」ことが自分たちの存在感を示す仕事だと、ちゃんとわきまえて発信しているのです。その媒体に向かって、まともな科学的レクチャーをしても、一個人の記者は分かってくれるでしょうが、週刊誌自体のDNAを変えるのはとても難しいということです。

ママ美 新聞はどうでしょうか。変わらないでしょうか。

正美 新聞は週刊誌とは違いますが、やはりそれぞれの新聞社は独特の世界観で動いています。新聞社によって差はありますが、そこにあるリスク観は、農薬や食品添加物、遺伝子組み換え作物などのリスクが大きいかどうかよりも、少しでもリスクがあれば、それを声高に主張する人たちの意向を尊重する価値観、世界観を重視しているように思います。科学的なテーマであっても、政治的な問題かのように報じる姿勢がそれです。新聞社の報道はすべて一種の政治的な言動です。

反科学と反政治は共通の土台でつながっている

ママ美 政治とも絡んでくるのですね。

正美 そうです。朝日、毎日、東京の3紙が政治的なテーマでも、科学的なテーマでも似たような論調になるのはまさに世界観(もしくは政治的姿勢)が一致しているからです。
つい最近、朝日新聞の経済面(4月20日)コラム「経済気象台」に「農薬が発達障害の原因として疑われている」との記事が掲載されていました。昨年、毎日新聞にもネオニコチノイド系農薬が発達障害に関係しているのではという記事が出ていました。3紙とも、農薬と発達障害(または、がんの多発)に真の因果関係があるかどうかに関して、記者がたくさんの論文を読みこなし、深く追究しているわけではないのに、結論としては「農薬が発達障害に関係する」という仮説が大好きなのです。その3紙の世界観は、そういう仮説を信じて政治運動を行う市民や政治家の世界観ともつながっています。その証拠に、立憲民主党や社会民主党の政治家はしばしば農薬と発達障害、がん発症との関係について国会で質問しています。科学と政治は同じ世界観を共有しながら連携しているのです。

ママ美 世界観とリスク観の関係はどうなるのでしょうか。

正美 一言でいえば、記者(特に社会部記者)は総じて「リスクを社会的な問題として受け止める」傾向があります。
たとえば、リスクがほぼゼロでも、企業がリスクに関係する情報を隠したと分かれば、企業を追及します(福島原発のタンク処理水の放射性物質)。記者は科学的に安全だといわれても、その前提となる条件やデータがいつ変わるかもしれず、不測の事態を常に想定します。遺伝子組み換え作物や原子力発電のように科学が生み出す不安や負の側面に着目します。巨大企業が利益を独占する状況も見逃しません。要するに科学を懐疑的に見るのが記者の使命だと考える習性があるのです。それは多数派科学が犯した過去の教訓を忘れてはいけない、という姿勢があるからでしょう。

ママ美 それは良いことなのではないでしょうか。

正美 確かに良い面もあります。
熊本の水俣病の原因追求では少数派科学者の主張が正しかった。BSE(牛海綿状脳症)でも多数派科学者は「人への感染はない」と言っていたのに、実際に人が感染してしまった。そういう過去の二の舞を踏んではならないという教訓は今も多くの記者のDNAに組み込まれています。また、原子力と科学(またはテクノロジー)では、社会的な差別や偏見が生み出される構造にも着目します。

ママ美 記者のリスク観は、政治的な世界観とセットになっているような感じでしょうか。

正美 そういうことです。本来、科学と政治は別のはずですが、実は共通の土台の世界観でつながっているのです。原子力や遺伝子組み換え技術(科学的テーマ)を批判することが、政府を批判することにつながっているわけです。

徹底的なファクトチェックで

ママ美 リスクコミュニケーションの観点からは、国などは、記者がそのような「場の制約」を受けていることを考慮しないで情報提供している点を、正美さんは課題だと思っているわけですね。

正美 随分と回り道をしましたが、まずは記者個人が科学的な知識を身につけるだけでは、メディアのゆがみ(世界観、政治的姿勢)はただせないということを指摘したかったのです。

ママ美 では、どうすればよいでしょうか。

正美 国などの情報発信者は、新聞や週刊誌の記事、テレビのニュースが場の制約によって生み出してしまっている間違い、ゆがみを、徹底的にファクトチェック(事実かどうかを検証する)し、指摘すべきです。
たとえば、記者セミナーの際は、必ず記事の実例を記者たちに見せ、どこがどう問題かを指摘する。先に示した、4月20日の朝日新聞の記事(経済面の「経済気象台」)を記者と一緒に読み、専門家から見て、どこの記述がおかしいかを論じ合うのです。個別記事を徹底的に検証する演習セミナーといえば、分かりやすいでしょうか。
たとえば、この記事では、各地で発生した鳥インフルエンザの原因を「ひたすら卵を産ませる不自然な形の飼育」に求めていますが、本当でしょうか。鳥インフルエンザは過去には西欧の、開放的な環境でも発生しています。この記事は、工業的な畜産を悪とみなす記者の単純な世界観に立った内容だとすぐに分かります。おそらくこの記者は、深く考えて畜産や農薬などを論じているいるわけではなく、「経済よりも命が大事だ」と書きたいがために自分の世界観に沿った現象を観念的になぞっているだけだと思います。

記者たちはしばしば大量生産大量消費を批判しますが、天下の朝日新聞のような大新聞こそ、紙を大量に刷って全国に配る大量生産大量消費時代の申し子のような媒体なのです。かつて「森林資源を守るために夕刊を廃止しよう」という運動がありましたが、これに賛同する新聞社はゼロでした。新聞社も自分のこととなると経済が大事なのです。

なぜ、具体的な記事のファクトチェックが効果的かと言えば、読者が「この媒体は、まちがった記事ばかり載せている」と気付けるからです。評判が落ちると、売り上げも落ちるので、組織(デスクや経営陣)も「これではいけない」と姿勢を改めざるを得ません
新聞やテレビ、雑誌の発信する情報を、社会が適切に評価できるようになることが、あるべきリスクコミュニケーションでしょう。

私は取材を通じ、マスコミの報道が専門家からあまり信用されなくなっていることをひしひしと感じています。ただ「トンデモ記事」すらも、まだ一定の信用を得ています。
これは、国など情報提供する側が、メディアを相手にしても、消費者への説明と同じように、目の前の記者に科学的に正しいことを言うにとどまっていることが一因と思います。それでは、メディアの間違い、ゆがみを防止することはできず、適切なリスクコミュニケーションとは言えません。