第39回 国のリスクコミュニケーションに足りないこと(前編)

2021年5月10日

こんにちは、小島正美です。前回のブログで「記者のリスク観と、消費者のリスク観は全く異なります」と書いたところ、「もっと解説してほしい」との便りが届きました。そこで、記者がどういうリスク観、世界観でニュースを作っているかを2回にわたって考えてみます。

相手が誰でも同じ説明

正美 私が常々気になっているのは、食品安全委員会や農水省、消費者庁が、農薬や食品添加物、放射線などについてリスクを説明する時に、相手が一般の消費者でも、記者でも、専門家でも、ほぼ同じスライドを使い、同じように説明していることです。

ママ美 同じだとダメなのでしょうか。

正美 私はダメだと思います。聞く相手にとってベストな説明とはどういうものか、と考えれば、内容は違ってくるはずです。
たとえば、食品に残留する農薬や食品添加物のリスクを語る場合、科学的な手続きに則って定められた1日許容摂取量(ADI)以下なら安全(リスクがゼロではないが、受容可能)です、といったレクチャーを行政側はよく行います。国が定めた安全の目安(もしくは安全性の確認)に合格していれば科学的には安全です、という言い方を長く続けているわけです。

ママ美 私にはその説明はよいように思えるのですが、何がダメなんでしょうか。
というのは、私も、以前は農薬が少しでも残っている野菜はイヤだと思っていましたし、食品添加物にも否定的でした。しかし、ADIの考え方を聞き、そう言われれば、塩や砂糖のような天然のものであろうと、農薬や食品添加物など人工のものであろうと、連日食べすぎたら健康に良くないし、逆に少量だとか、間を開けて摂取すれば、健康に影響は出にくいということに気付いて納得できたのですが。

記者の先にはデスクがいる

正美 科学的な概念の導き方を説明したものであり、記者に理解してもらうレクチャーは大事です。
しかし問題は、新聞社や雑誌社、テレビ局など組織に所属している記者が書いた記事は、そのまま報道されるわけではないことです。書いた記事をチェックするデスクたちを通らなければ、記事は報道されません。ところが、発表する側は、このデスクたちに直接説明をすることができません。

ママ美 なるほど。ということは、発表する側としては、情報提供するときに、目の前の記者に理解してもらうのは当然として、さらに、その記者が、デスクにきちんと説明できるようになってもらうことも意識しないといけない、ということでしょうか。

正美 そうなんですが、それだけでは不十分です。
各媒体には、その媒体のカラー、主張があります。リスクについてもそうです。リスクを考えるとき、何事もゼロということはありません。そのリスクのとらえ方に、各社それぞれのカラーがあるわけです。
記者はそのカラーに縛られます。たとえば、主な新聞6紙を比べると、大雑把に言えば、毎日新聞、朝日新聞、東京新聞(地方新聞にニュースを配信する共同通信社もこの仲間に入る)は、ゲノム編集食品でもトリチウム水でも、おおよそリスク全般に対して厳しく、ネガティブな記事が出てくる傾向があります。
これに対し、読売新聞、産経新聞、日本経済新聞はリスクに対して優しい記事が多い傾向があります。

ママ美 各社の記者が、科学的なテーマの同じレクチャーを聞いていても違いが出てくるんでしょうか。

社によって異なる、リスクへの厳しさ度合い

正美 出てきます。申し上げたように、リスクのとらえ方が各社で異なるからです。たとえば、福島原発のタンク群にたまるトリチウム水。リスクが「ゼロ」なわけではありませんが、国は「しっかり処理するから、海へ流しても安全だ」と言います。
これについて、朝日新聞の記者が「福島原発のタンク群にたまるトリチウム水を海へ流しても安全だから、海洋放出を容認する」という、国の発表をそのまま書いたような原稿を出稿しても、そのままではまず載らないと思います。朝日新聞が「残っているリスク」を、国より大きくとらえるカラーだからです。

ママ美 でも、トリチウム水の問題を担当した朝日の記者が、たくさん取材した結果、国の言うとおり安全と言ってよいと思う、という結論にいたることもあるではないでしょうか。

正美 当然あるでしょう。しかし、その記者が自社のカラー(社論、見解)に反する記事を書いたとして、デスクを通して掲載にいたるのは非常に難しいでしょう。
記者はどんなテーマでも取材は自由にできますが、最終的に決定権をもっているのは組織です。現に、私は朝日新聞にいる知人と、遺伝子組み換え作物や福島原発の放射線などの問題について話をしたことがあります。その記者は「デスクや部長が、社論や社説と合わない記事を載せないことが分かっているので、出稿しても無駄」と言っていました。こういう制約は大なり小なりどの新聞社でも起きています。
6紙だけでも記者は数千人いますので、記者の個性あふれる多彩な記事が出てきてもよさそうですが、幾千もの記者の原稿を通す門はわずか6門(6つの新聞社)しかないのです。

ママ美 でも今は、個人のブログやSNSで言いたいことを書けてしまうのではありませんか。

正美 しかし、「毎日新聞の○○です」などと組織の名を背負った肩書を名乗って取材した内容については、「会社を離れた完全な個人」の記事とは受け止められないでしょう。実際、新聞記者がブログで自身の本音を書き、世間から批判を受けたところ、記者個人ではなく新聞社が謝罪をし、ブログは閉鎖された事件があったことをみなさんも覚えておられるでしょう。
私の経験から言って、私が所属していた毎日新聞社は他紙に比べて、記者の自由度は一番高いと言えます。これは他紙の記者もほぼ同意する事実です。私が社論に反したことを記事に書いたり、自著の中で毎日新聞の記事を批判したりしても、会社は寛容でした。しかし、それでも私の書いた記事がそのまま通ったわけではなく、社論に沿った内容に改変されたことは何度もあります。
そういう経験を重ねると記者のほうも賢くなり、徐々にどういう記事を書けば、デスクの関門を通るかが分かるようになります。そして、いつしか記者は社風に染まっていくわけです。外に向かっては「多様な言論が必要だ」と声高に訴える新聞社ですが、その新聞社の中では意外に記者の自由はありません。

「場の制約」を前提としたリスコミを

ママ美 ただ、記者に限らず、組織はどうしても個人の自由の制約はあるでしょうから、記者はすぐにあきらめたり、折れすぎることなく、正確な報道をしてほしいですね。でないと、読者や視聴者が離れることにもなるでしょう。

正美 確かに、これまで述べたことは組織に属する人間すべてにあてはまることかもしれませんね。一般に「記者は自由に書ける」というイメージがあるようなので、そうではないことを強調しているわけです。

ママ美 話を冒頭に戻すと、リスコミについて言えば、そういうことを理解したうえで情報発信すべきなのに、正美さんからは、国のリスコミはそうは見えないから、歯がゆいわけですね。

正美 はい、そうです。つまり、一個人の記者が科学的な知識をいくら身につけても、いざ記事を書くときは、置かれた「場」に制約されてしまいます。では、この問題をどう考えればよいか。次回はこの点について述べていきます。

ママ美 とても楽しみにしています。