第56回 マスコミが作り上げた虚構が、いつの間にか心理学の定説に?

こんにちは、小島正美です。今回は、本の紹介も兼ね、「食」の世界にも多いに関係のあるジャーナリストのあるべき使命について考えてみます。その本とは、オランダ出身の若きジャーナリスト、ルトガー・ブレグマン氏(1988年生まれ)が著した「希望の歴史・人類が善き未来をつくるための18章(上・下)」(文藝春秋)です。人間は本質的に善だと訴える力作です。私が興味を持つのは、これまで常識だった心理学の定説をジャーナリストが再度、検証して覆すという誠に痛快な検証劇である点です。ジャーナリストがここまで踏み込んで科学の定説に挑んだ例を知りません。また、実は、この定説はマスコミが作り上げたストーリーに基づく虚構の説だったという結末にも驚くばかりです。

「傍観者効果」は本当か?

この本には様々な学説の検証例が登場しますが、ここでは1964年、米国・ニューヨーク市で起きた殺人事件を取り上げます。事件は夜中の午前3時過ぎに起きました。キティーというダンス好きな女性(28歳)がアパートに帰る途中で何者かに刺されます。悲鳴が近隣に響きわたりましたが、近隣の住民はその惨劇を自宅の窓から見ていながら、だれ一人彼女を救おうとしなかったという事件です。当時、この事件に対して、資本主義のジャングルにおけるモラルの欠如だと書いた新聞もありました。大都会に住む孤独な住人の危険な匿名性を語るエピソードとして長く語り継がれてきた事件でもあります。

当時、この事件は、38人の隣人が殺人の現場を目撃していたと報じられています。なのに、なぜ救えなかったのでしょうか。心理学的な解釈はこうです。

「みなが見ていれば、だれかが通報し、助けに行くはずだから、あえて自分が助けに行かなくてもよいんだ」。

これが心理学の世界では「傍観者効果」と言われ、これまで広く流布してきました。確かに、現場にたくさんの人がいれば、だれかが助けに行くだろうと思って、自分は何もしないという心理は働くような気がします。

私は行動経済学や社会心理学の本をよく読みますが、この事件の教訓に触れた本に何度も出合っています。この事件から引き出された「傍観者効果」はもはや否定しようのない定説だと思っていました。

ところが、この本を読んで、この話がマスコミの作り上げた虚構だという事実を知ったわけです。

世間に受けるストーリーに固執するマスコミ

本の著者は、殺人事件のあった地区に引っ越してきた歴史学者などを取材しながら、当時の状況を再度、検証していきます。すると少なくとも2人の住人が警察に通報していたことがわかります。なんと警察は夫婦けんかだと思ったらしく、現場への到着が遅れてしまったそうです。目撃者の38人という数字も、実はあやふやで、38人全員が殺人現場を見ていたわけではなかったことも分かります。そして、確実に目撃していた2人のうち、一人が隣人に通報したことから、その隣人の女性(ソフィア・ファーラーさん)が助けに走ったことも分かりました。なんとキティーさんはその隣人の腕に抱きかかえられて息を絶えました。

では、なぜ、当時の新聞はこの隣人の話を記事にしなかったのでしょうか。助けに行ったソフィアさんの息子によると、「母は、新聞記者に一部始終を話したが、翌日の新聞には、『事件に巻き込まれたくなかった』と書かれ、母は『記者とは二度と口をきかない』と激怒していた」というのです。

当時の記者の中では、珍しく事件の真相を疑った地元のラジオ局記者が改めて取材すると、ほとんどの目撃者はキティーさんのことを単なる酔っ払いだと思っていたことも分かりました。そこで、ニューヨークタイムズの記者に「なぜ、真相を記事に載せないのか」と聞いたところ、記者は「そんなことをしたら、話が台無しになる」と答えたというのです。

要するに、記者たちは大都会に住む人たちに見られる「傍観者の無関心」という分かりやすいストーリーに固執したわけです。この事件について、著者は「報道された話に真実がほとんど残っていないことには衝撃を覚える」と書いています。

事件から5日後、怪しい男が近隣の家からテレビを運びだそうとしているところを近隣住民に目撃されます。近隣住民の通報と連携によって、この男は逮捕されますが、この男がキティーさんの犯人だったのです。つまり、犯人は、世間では傍観者と言われている近隣住民の連携によって逮捕されたわけですが、新聞はこの連携を報じませんでした。マスコミが描く理想的なスト-リーが台無しになるからです。

著者は「ジャーナリストは、煽情的な話を売るために容易に世論を操る」ことを知るべきだと強調しています。そして、「緊急事態でも人は互いに頼りにできる」ことも訴えています。

私はこの殺人事件に関する教訓めいた話を何度も本で読んでいますが、38人全員が目撃していながら、だれも助けなかったというストーリーだと信じ込んでいました。まさか心理学の教科書に出てくるような定説に嘘があろうとは微塵も思いませんでした。

すでに一般的に流布している定説が真実かどうかを、一ジャーナリストが検証する追及姿勢に脱帽です。

HPVワクチンでも同様のことが起きていた

この殺人事件の教訓に似た話はないかと思って、思いめぐらせたところ、既視感のある出来事が浮かびました。子宮頸がんなどを予防するHPV(ヒト・パピローマ・ウイルス)ワクチンに関する煽情的な報道です。

記者たちは、いったんワクチンの副反応に関するストーリーを作り上げると、それに沿った学者の意見だけを取り上げ、延々とワクチンの恐怖を煽っていました。そして「ワクチンによって脳に障害が起きる」と主張する一部の学者の説を何度も報じていました。ところが、その主張の根拠になった実験がネズミ1匹で、「公表する価値のない予備的な実験」(信州大学の正式調査)だと分かると、記者たちは、潮が引くように一斉に報道するのをやめてしまいました。新しい真実が分かっても、それを報じるのではなく、沈黙してしまったのです。過去の誤った報道を訂正するのではなく、真実の追及をやめてしまったのです。80%近くあったワクチンの接種率が1%以下に激減したままの状況が続いていることから、記者たちが描いた恐怖のストーリーがいまも世間で生き続けていることが分かります。

いま、新型コロナをめぐって、さまざまなことが起きています。一般に信じられていることがどこまで本当かをぜひ記者たちに検証してほしいと思っています。