第83回 コンビニ弁当やロレックスの時計は果たして不要か?

こんにちは、小島正美です。前回(第82回)、経済思想家の斎藤幸平氏(東京大学准教授)が、山田正彦・元農水大臣の本の推薦文を取り下げたというお話を載せましたが、その後、山田氏の本「子どもを壊す食の闇」の紹介がネットから削除されていることが分かりました。まだ一部のネットで残っている例もありますが、9月の出版予定と記されていた河出書房新社の9月発売予定の書籍リストからは消えています。出版社が最終的に刊行を断念したかどうかは分かりませんが、やはり内容に問題個所が多く、戸惑っている様子がうかがえます。この動きは今後も注視したいと思います。

ところで、その斎藤氏が著したベストセラー本の『人新世の「資本論」』を改めて読んでみました。マルクス主義にかぶれていた20代のころの私が当時、考えていたことと似たようなことが書いてあり、興味を覚えました。

深夜のコンビニやファミレスは不要

斎藤氏は本の中で資本主義の負の側面として、際限のない物質的欲求を満たす消費を指摘しています。その具体的な例として、「(外食産業の)食べ放題、シーズンごとに捨てられる服、意味のないブランド化」を挙げています。

さらに、意味のない仕事として、人々の欲望を不必要に喚起するマーケティング、広告、パッケージングなどを挙げ、深夜のコンビニやファミレスも不要だと主張しています。また、水や飼料を多量に必要とする牛肉や贅沢なSUV(スポーツ用多目的車)、最新の流行を取り入れながら低価格の衣料品を短いサイクルで大量生産・販売するファストファッションも、なくてよいと論じています。

さらに、不要なものとして、巨大製薬会社がつくる精神安定剤やED(勃起不全)の治療薬も挙げています。ワクチンとED治療薬、どちらが役に立つのかという問いかけで命を救うワクチンだと主張しています。資本主義は人の命を救うよりも、儲かるかどうかの利益を優先するから問題なんだという考え方です。

時計はカシオかロレックスか

さらに、分かりやすい例として、カシオの時計とロレックスの時計、どちらが役に立つかという話も出てきます。ご想像がつくように、時を刻む時計としての「使用価値」はどちらも同じです。みなが平等に持てる手ごろな値段のカシオの時計があれば十分だというのが斎藤氏の主張です。この論理でいくと、車も高級車は不要で、大衆車があれば十分だということになります。

実は、こういう資本主義批判は私の若いころ(1960年代~80年代)にも盛んにありました。何を隠そう、私もそう考えていました。国民全員が同じデザインの人民服(ユニフォーム)を着れば、格差もないし、衣料品をつくる産業に必要な労働時間(労働者)は少なくて済む。みなが低価格の大衆車に乗れば、モデルチェンジのような無駄なコストは省けるし、車の価格は安くなる。みなが同じ規格の家に住み、同じ冷蔵庫、テレビを利用すれば、新製品開発も広告もマーケティングもいらず、労働時間は週に24時間(週休4日)で済むはずです。

そして、余った時間は、斎藤氏が本で書いているように、「スポーツをしたり、ハイキングや園芸などで自然に触れたり、ギターを弾いたり、絵を描いたり、読書したり、自ら厨房に立ち、家族や友人と食事をしたり・・」といった人間らしい営みに費やすことができるはずです。そんな社会主義のあるべき姿を空想したものです。

斎藤氏は、満員電車に詰め込まれ、コンビニ弁当やカップ麺をパソコンの前で食べながら長時間働く生活に代わって、芸術や文化、スポーツ、友情や愛情に囲まれた人間らしい生活をしようと説きます。

「交換価値」より「使用価値」が大事

こういう理想論のどこに問題があるのでしょうか。それは、「人」はみな違うということに尽きます。

斎藤氏は、商品の「交換価値」よりも「使用価値」が重視すべきだと強く説きます。使用価値は読んで字のごとく、モノを使用するときの有用性を指します。一方、交換価値は商品として売られるときの価格のことです。資本主義が目指すのは、少しでも利益を生む交換価値なのはいうまでもありません。

使用価値を考えれば、カシオの時計で十分ですし、化粧品も高級な化粧品は不要です。なぜなら、資本主義はパッケージのデザインを工夫して、いかにも高級っぽく見せて、高く売ろうとするからです。ですから、斎藤氏は、交換価値を高める広告やマーケティング、パッケージングは不要だと主張するわけです。これらの仕事は使用価値を高める労働ではなく、人々の欲望をかきたてる仕事だというわけです。

価値観の押し付けは「自由」の圧殺

斎藤氏は本の中でしきりに使用価値こそが重要だと説いています。実は、私も旧ソ連が崩壊して、社会主義の劣悪さと虐殺ぶり、自由の圧殺を知るまでは、斎藤氏と同じように思っていました。

しかし、何が高級で、何が不要かは、実は人間の大切な価値観、つまり、「自由」の領域に属します。だれかの価値観が正しくて、だれかの価値観が正しくないということは本来ありえません。この点において、社会主義は多様な価値観を認めないという最大の欠陥を抱えています。価値観に序列をつくるからです。社会主義にとって理想的な価値観を全員に強いると自由の圧殺、虐殺が発生します。従わない者は強制収容所送りです。学問もその例外ではなくなります。旧ソ連で起きたことはまさにこれでした。

マルクスの理想を追った中国の文化大革命は失敗

斎藤氏はこう述べます。「マルクスによれば、労働の創造性と自律性を取り戻すために必要な第一歩が、分業の廃止である。・・労働を魅力的なものにするためには、人々が多種多様な労働に従事できる生産現場の設計が望ましい。だから、マルクスは繰り返し、精神労働と肉体労働の対立、都市と農村の対立の克服を将来社会の課題として提唱したのだった」。

この理想を実現しようとしたのが中国の毛沢東による文化大革命でした。知的な精神労働を行う教師も、畑に行って肉体労働をすべし、というわけです。従わない者は強制的に農場や収容所に送られました。確かに精神労働と肉体労働の対立は権力の力で減ったかもしれませんが、経済は大停滞し、大量の虐殺が発生しました。

20代のころの私は、国民全員が同じ服を着て、同じ車に乗り、同じ家に住んで、あとは自由に芸術や文化、スポーツを楽しめばよいのにと思っていました。ところが、国民の中から、「いや私は赤い服を着たい」「いや私はフリルの服をつくってみたい」「私はファッション性にすぐれたアパレル会社を立ちあげたい」「私はおしゃれなレストランにおしゃれな車に乗って出かけたい」「電気自動車で世界を制覇したい」など、さまざまな価値観をもった人が声を上げたら、どうなるのかという先の先のことまでは考えていませんでした。

「使用価値が同じなんだから、ファッション的な高級服は不要」などと言えば、だれもついてきません。

実は、国民のみなが芸術や文化、園芸、スポーツを楽しむためには、莫大なコストのインフラ整備が必要なのです。芸術や文化・スポーツ交流にはパソコン、スマホ、楽器、バス、車、テレビ、冷蔵庫、緑の公園、競技場の整備などが欠かせず、それにはたとえば、世界最先端技術の半導体と大量の専門技術者が不可欠です。そういう時代にあって、分業の廃止とか知的労働と肉体労働の対立とかいうマルクスの概念は浮世離れに聞こえてしまいます。

価値観に序列(優劣)を見出す思想はやはり自由の圧殺につながる危ない思想なんだということを『人新世の「資本論」』を読んで改めて思った次第です。